今朝、お葬式というかお別れの会ですね、行ってきました。
このコロナの時期なのでひっそりと秘めやかに行われました。
今日のお葬式、亡くなった人は私たちにとってこんな人でした。
オーストラリアに来て、まだお友達がいなかった頃知人に連れられて教会に顔を出してみました。
そこではたくさんの人が歓迎してくれました。
そのおかげでお友達も増えて行ったのです。
その教会でお年寄りだけのサークル、カーペットボウリングに誘われて主人だけが参加していました。
毎週、決まった曜日の時間に20人くらいのメンバーで楽しんでいましたが、だんだん人数が減って
今はすでに消滅しています。
カーペットボウリングというのは、その名の通りカーペットの上でボールを転がすゲームです。
最盛期の頃に、毎月お世話になっていることもありメンバーを我が家に招待してパーティをしたこともあります。
なん年くらい続けただろうか、だんだんと亡くなっていく人が増えて来ました。
そんな中の一人のおばあちゃん、私の祖母に雰囲気と気配りがそっくりでだんだん惹かれて行ったのです。
だけど寄る年波には勝てず、ある日養老院に入りました。
肉体的には少しヨボヨボしていましたが、頭はしっかりしていて記憶力もすごかったです。
そんなおばあちゃんの誕生日には養老院に面会に行っておりました。
年1回しか行けないので、毎年今年はまだ元気だろうかとヒヤヒヤしながら行ったのです。
やはり90歳を超えるのはかなりきついですよね。
6月ごろナーシングホーム(終末期に収容)に入ったと聞き、憂鬱になりました。
すると8月終わりに亡くなったとの知らせに、とっても悲しかったです。
苦しまずに穏やかだったのだろうか?
優しかったおばあちゃん、私の本当のおばあちゃんのようだった彼女は94歳で逝去しました。
コロナの影響で参列する人も少なく、親族もアメリカや遠くなので来れない状況でおばあちゃんは
寂しかったのではないかなと思ったりしました。
離れている家族親戚には当然ズームででの映像です。
式典では、その人のプロフィールを、写真、ビデオなど紹介します。
そしてお別れの言葉も家族、友人などで披露するのですが、泣いてばかりの弔辞ではありません。
みんなが笑いだすようなエピソードも交えて、会場は笑いと涙でいっぱいになるんです。
昔、クリスチャンは葬儀で泣かないと聞いたことがあります。
でもそんなこと真っ赤な嘘でした。
悲しいときは悲しいんです、人間ですから。
今までの葬儀は、一連の式が終わったらあとは教会のホールでお茶会が催されます。
ケーキにサンドイッチやフィンガーフード、果物に、コーヒー紅茶が出ます。
しかし今回はそれも中止、お茶会では個人を忍んで思い出話をする場なのでないと寂しいですね。
オーストラリアでのお葬式には何度か参加しましたけど、
服装はフォーマルを来てくる人は親族と葬儀屋さんだけ。
私たちは最初、知らなかったのできちんとフォーマルを来て行ったら場違いにきたようでした。
普段着で派手な洋服の人もいれば、まあきちんとした服装の人もいてびっくりでした。
日本と違って香典のようなものはなく、みなさんシンパシーカード(お悔やみ)を渡します。
感謝の言葉やサヨナラの言葉、思い出などを書いたカードを遺族に贈ります。
物は送りませんが、花束などは祭壇に飾る人もいます。
日本のように派手ではありませんが、心がジワーとしてきます。
そして今は、お墓に遺体を埋めることは少なくなって火葬が増えてきました。
でも親族はお骨を拾いません。
欲しい人は葬儀屋さんに頼みます。
なぜかと思うのですが、肉親の骨になった姿は衝撃的で見ることができないらしいのです。
その気持ちよくわかります。
生きている限りいつかは別れがきますが、さみしいですね。
このおばあちゃんのご冥福を祈って帰ってきました。
アーメンと言うべきなのでしょうね。